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ゼミ課題読書感想文 金田峻

 

201104

 


 

「獄中からの手紙/ガンディー」についての考察

 

@はじめに

今まで高校の歴史の授業で「非暴力、不服従」という言葉とセットでしか覚えてこなかった「ガンディー」という人物、彼を形作っている思想や行動原理が何なのか、この本を読んで多少なりとも理解できた気がする。彼が目的とするのは「真理」=「神」であり、それは言葉を超越したものであって、人生はこれに少しでも到達するためにあるという。そのための手段が「愛(アヒンサー)」であり、相手を赦し、相手に自らの過ちを気づかせることを大原則とする。そしてそれに関連する種々の戒律、「無所有」「寛容」「誓願」といったことがこの本の中で述べられている。これらに通じるのはただひたすら道徳的に厳粛であるということであり、「理想主義」と言えるものである。その中にはもちろん実現不可能だといって考慮しないには惜しい思想(戒律)も存在するが、自分の中でどうしても受け入れられないものもあった。ガンディーの思想を肯定と否定、両方の面から述べていく。

 

A同意できる点

 まず、肯定できる思想「不可触民制」と「寛容」について述べる。不可触民制とは「特定の身分や家柄に生まれたという理由で、ある人々に触れると穢れる」ということを意味するものであるが、身分というもので人を差別するこのような制度が撤廃されるべきだとする点については多言を要しないだろう。これは、実際には建前に過ぎないという批判も存在するが「人は生まれながらにして平等である」という現代の思想とは相容れないものである。今でこそ世界に広く普及した考えだが、ガンディーがこれについて語ったのは1930年代という生まれによる差別が厳然と存在する時代であったことは慧眼に値する。現在、カースト制の全面禁止とともに不可触民という概念も表面上は消えたが、インドにおいて身分による差別は未だ存在しているなど、その思想は受け入れられながらも実践には至っていないのが現状である。その意味で、ガンディーの望みはあれから何十年たった今も実現していない。そして「寛容」という思想についてであるが、これこそ私たちが耳を傾けるべきものではないだろうか。

ここで言う寛容とは「宗教の平等」を指すものであり、ガンディーによれば真理=神は一つであり、それは言語を超越したものである。故に、それを人間が言葉で表そうとすれば一が多になる、つまり様々な宗教が生まれるのである。皆がこの点について認識すれば、宗教の優劣について議論することがいかに無意味か分かるだろうとガンディーは主張する。ある意味「過激」とも受け取られかねない思想であるが、もはやこのように考えるしか宗教観の対立を克服する道はない。私たち(特に日本人)は普段異文化を持つ人達と接する機会が少ない分、時折そのような体験をすると、まず自分たちの文化と比べる。その体験で得られた感情は往々にしてあまり心地よくないものであるから、その文化に対して「良くない」という価値判断をするのではないだろうか。これは宗教を比較するときにも生じる事態であり、これでは寛容など到底実現できない。「様々な人達がいるから様々な宗教がある」という主張を超えて「根源は一緒である」と主張する。どのように説得するかは非常に難しい(何しろ真理=神は言語を超越したものであるから)、そして恐らくこの言葉に耳を傾ける人の数は非常に限られているにせよ、この思想が今の混沌とした世の中において一筋の光となってくれることを期待したい。

 

B批判 

反対に、どうしても受け入れることができなかった「ブラフマチャリヤ(純潔・禁欲・浄行)」と「無畏」の思想について述べる。この二つの特定の思想というよりも、ガンディーの思想に共通する「無私」という考え方が受け入れられなかったのであるが、それはその考え方が私たち人間の根本的な特徴を真っ向から否定しているように感じたからである。まず、ブラフマチャリヤについて、ガンディーは通常考えられる夫婦のように「一人の男と一人の女が愛し合う」ことを否定する。なぜならそれは「肝心なのは二人だけ、あとのみんなはどうでもござれ」という考えに繋がるからであり、そうではなくて「夫婦が互いを兄や妹」と捉えることによって、人類に奉仕できる、すなわち愛(アヒンサー)を実行できるという。だから、ガンディーにとって夫婦間の性的行為などもってのほかということになる。

私は、このガンディーの主張を強く否定する。ガンディーの教えを実行すれば、夫婦と子供が一緒に住むという意味での「家族」は消失するが、それでは愛を実行することはできない。愛とは「相手を赦し、相手の過ちに気づかせる」というものであった。この教えを実行するのは大変な苦行が伴うとガンディーは述べているように、そう簡単には実現できるものではないというのは確かである。であるならば、まずは身近な所から始めるのが筋であり、そのために家族が存在すると私は考える。家族という外から切り離された空間で、関係を密にするもの同士がお互いの過ちについて罰するのではなくて赦しあい、そしてお互いが自らの過ちに気づく。始めは上手くいかないかもしれないが、家族だからこそそうした機会は決して一度きりではない。そして愛について多少なりとも理解することができたのなら、その範囲を少しずつ広げていく。その繰り返しによって人は真理に近づいていくのではないか。つまり、家族(家庭)というのは人間にとって特別なもの、空間であり、それなくして愛は実行できないのだ。特別なものであるからこそ、家族において人は「私とはどういう存在か」という意味での「私」を形作ることになる。こう考えると、「全きの無私」などありえない。故に「無畏」の戒律についてガンディーが述べているように、自己のすべてを犠牲にすれば(無私が実現すれば)「病気や傷害や死、財産の消失、近親者や愛する者たちとの死別、名誉の失墜や他人の感情を害すること等々への、いっさいの外的恐怖から解放される」(p51)というのも実現不可能である。むしろ「私」という概念を一切なくして、これらの恐怖から解放されようと願うことは人間であることを否定しようと願っているようにしか見えない。そのように振舞っている人間がいたとしても、必ず心の奥底ではそのような感情が存在する。「私とはどういう存在か」を問い、その私を揺さぶること出来事や思想にその都度深く悩む、それが人間である。

 

 

C「理想」を受け止める

これまで、ガンディーの思想のなかで特に「不可触民制」「寛容」「ブラフマチャリヤ(純潔・禁欲・浄行)」そして「無畏」を取り上げて議論してきたが、これらに限らず、ガンディーの思想というのはとにかく道徳的に厳粛であり、究極の理想主義(無私に関しては同意しかねるが)だとも言える。故に、自分と同じく現代に生きる人々にとってガンディーの思想を実践するのは非常に困難、というよりももはや不可能のように感じられるだろう。

しかし、だからといってそれを一顧だに値しないものだとして切り捨てるのは非常に惜しい。理想というのはそれを完全に実現させるためだけにあるのではなくて、理想を持ち続けることで少しずつ物事を良い方向へ動かしていくためにも存在する。その点に関して、ガンディーは「理想のほんとうの意味を理解し、それがいかに困難であろうと、理想に到達しようと不退転の努力をすること、これこそがプルシャールタ、すなわち人間の<生存の>目的です」(P35)と述べている。確かに、人間というのは理想あるいは目標があるからこそ人間らしく生きることができる。まだ20年そこらしか生きていない自分でもなんとなくその点については理解している。であるからこそ、ガンディーの思想という究極の理想を持って生き続けることで、例え社会は変わらなかったとしても「充実した人生を送ることができた」と最後に思えるかもしれない。もちろん、ガンディーの思想は自分の理想とは反していると感じれば持つ必要はないが、主張を読んで何かしら自分に訴えかけるものがあったのなら、忘却してしまわずどこか頭の片隅にでも置いておいておくことに意味はあるだろう。

 

D終わりに

以上、ガンディーの思想を肯定と批判の両面から、そしてそれを受け入れた上で生きていくこととはどういうことかについて論じてきた。ここまで述べてきたように、ガンディーの思想は非常に厳格であり、当然受け入れられない人もいるだろう。だが、そう考えて彼の思想を簡単に切り捨ててしまうのは惜しい。人生の重大な局面において、彼の言葉が重い意味を持ってくるかもしれない、私はそう信じている。

 


 

「罪と罰 1巻/ドストエフスキー著」についての考察

 

@はじめに

『罪と罰』は言わずと知れたドストエフスキーの大作の一つである。新訳では3つの巻に分けられて物語が構成されており、第1巻は主人公ラスコーリニコフが殺人を犯し、その後猜疑心に苛まれながら苦しみ、そして母プリヘーリヤと妹ドゥーニャと再会するシーンを最後に物語は続く。これ程の作品であるからどのようなテーマを設定するのかは非常に難しいが、逆にそれだけ自由度も高い。私は、以下の4つのテーマに絞ってこの作品について論じていく。

 

A各テーマについて

1)             あれ程までに覚悟を決めた「殺人」を犯した後で、ラスコーリニコフが病的なまでに神経質になったのはなぜか?

これに対する答えは明確であるようにも思える。それは彼が常人と同じようにその犯行(殺人)が彼によるものだということが暴かれることについて強い恐怖心を抱いていたからである。しかし、それよりも重要なのは彼が予期していなかった「第2の殺人(リザヴェータ殺害)」に対する罪悪感が彼の心を支配していたのではないかと考えられる点だ。彼は、学生同士の何気ない議論「何万もの命を救うために一の命を奪うという理由で殺人は正当化されるか(これも後に述べる重要な議論である)」を聞いて悪徳高利貸しと悪評高いアリョーナを殺害することを決意し、大きく揺れ動きながらも確かにそれを実行する。しかし、その後予想だにしなかったリザヴェータの出現に驚き、彼女をも殺害してしまう。この時点で、彼の殺人を仮にでも正当化する根拠は消え去った。なぜなら、彼にはリザヴェータを殺す理由など全くなかったからだ。彼がいつ自分の犯行がばれるのか怯えながら、時折「何もかも吐いてしまおうか」という考えを頭によぎらせたのはそうした「罪悪感」から逃れたいがためだと考えられる(これはドストエフスキーが手紙に書いた『法による刑罰・・・犯罪者みずからが、精神的にその刑罰を求める(p465)』という意見にも関連する)。唯、例え彼が計画通りにアリョーナのみを殺したとしても、ラスコーリニコフが完全にそれを正当化して罪悪感から逃れることなど不可能だったであろう。犯行のあと、アリョーナを殺したことによって「私は多くの人々を救った」と正当化しようとする描写は一度たりともないからだ。要するに、彼にはその殺人を正当化する度胸などなかった。そしてこれは人として当然のことである。

 

2)             あそこまで絶望的な状態に陥っていたラスコーリニコフがマルメラードフの死をきっかけにまた生命力を取り戻したのはなぜか

絶望し、言わば神経衰弱のような状態であったラスコーリニコフは、ある出来事をきっかけに「ある新しい、充実した力づよい生命感に体の隅々まで満たされて」(p442)いるような感覚を得て、再び息を吹き返す。そのある出来事とは、ラスコーリニコフが馬車に轢かれて死にかけていたマルメラードフを、マルメラードフの妻カテリーナがいる自宅まで連れて行き、死を見届け、彼が彼女をどれだけ尊敬していた力説し、このお金が少しでも役に立つならと20ルーブルを彼女に手渡した後そこを去っていたという出来事を指す。なぜこのことが彼を救うことになったのか。まず、この出来事から推測されるのは、マルメラードフの家族から間違いなくラスコーリニコフは今後尊敬されるようになることである。救いようもない瀕死の酔っ払いを救い、マルメラードフの死を立てた彼はまるで英雄のように扱われる、そうなると考えた彼の自尊心が満たされることによってあのような感覚になる―とも考えられるが、それ以上に関連してくるのが「死」と「罪悪感」というキーワードである。2人を殺して、2人の死というものに直面した彼にとって、マルメラードフの死というものは当然ながらそれとは異質なものである。無慈悲に命を奪って直面した残酷な死が前者ならば、後者はそのまま放置していては何の意味ももたなかったであろう一人の人物の死(最期)を意味づけした(家族に囲まれた中での死、そして死の直前、娘ソーニャを前に行った懺悔)上での「死」であった。そうした意味で、ラスコーリニコフはマルメラードフを「救った」、そしてそれが彼の心を支配していた「罪悪感」を多少なりとも和らげることに繋がり、あの感覚をもたらしたのではないか。

 

3)             何万もの命を救うために1つの命を奪うという理由で殺人は正当化されるか

これは、この作品における最も重大なテーマの一つである。このようなテーマを自分のようなものが論じることに対して非常に気が引けるが、あえてぶつかっていきたい。結論から言えばこの論理で殺人が正当化されることなど絶対にあってはならない、ただ本当に最後の手段として残しておく必要はある、というのが私の考えである。まず、通常においてこの論理が成り立たないのは明白である。これを一人ひとりに適用したら世は惨事になる。各人が「この人物を殺したら皆幸せになる」と主観的に考えるとすると、そこに当てはまる人物は当然異なってくるだろう。もし正当化されその殺人が許されると各人が考えるとしたら、(本当にそれを実行できるのかというのは別問題として存在するが)世の中には殺人が溢れることになる。では、主観的なのが問題であって、客観性を確保するために多数決をとったら正当化されるのかと言えば、それも絶対に違う。少数者にとって圧倒的に不利な状況を生み出すこの原理を用いてしまうと、多数派の人々がこの論理を無理に当てはめる恐れが非常に強いからだ。

では、なぜ最後の手段として残しておくべきだと自分は主張するのか。それは、どの角度から見ても一人の存在によって大多数の存在が苦しめられている(死に追いやられている)状況は時として存在するからである。典型的なのが、ある一人の強力な独裁者によって国民が苦しめられているという構図である。このような場合、独裁者を止める手段がもはや「殺害」という手段しか残されていないと判断されれば、この論理は適用可能だろう。しかし、独裁者を止めようとする過程で大多数の国民がそれに巻き込まれたり、またその独裁者が消えた後今まで以上の混乱がもたらされたりするというリスクは常に存在する。よって、この論理が適用される余地は残っているとは言え、安易に適用することだけは絶対に避けなければならない。

4)             ラズミーヒンの「ちょっとした悩みがあれば、卵をかかえた雌鳥みたいにだいじに抱え込む!そんなときでも、外国の物書どもから平気で盗んでるのさ。きみらにゃ、独立独歩の生き方なんてこれっぽっちもありゃしない!」という言葉について

このテーマは物語に直接関係するものではないが、個人的に胸に突き刺さるような言葉だったのでここで取り上げることにする。この言葉をどう解釈するのかは人それぞれであろうが、自分には読書を続けている人達に向けられた言葉だと感じた。よって、このテーマについては自己弁護するような形で論じていきたい。

まず、「ちょっとした悩みがあれば雌鳥みたいにだいじに抱え込む」点についてだが、悩むことは大学生の仕事、特権のようなものだと考えているので重要視しない。しかし、次の「外国の物書どもから平気で盗んでるのさ。きみらにゃ、独立独歩の生き方なんてこれっぽっちもありゃしない」という指摘は問題である。これは「読書について」(ショウペン・ハウエル著)における「本を読むことは時間の空費である。なぜなら読むだけ自分でものを考える力を失っていくからだ」という主張にも共通するものがある。確かに、何か悩みがある時はまずいつか本で読んだ1フレーズが浮かんでくる自分にとって、考える力がないと言われても仕方がないかもしれない。しかし、自分で答えを出す前にどのような考え方があるのかを知っておくことは重要であると私は考えている。1つの物事に対する見方はそれこそ千差万別であることは本を読んできて分かったことであるし、だからこそ自分は混乱した状態にあるのだが、それでも今は許される「猶予期間」なのではないか。私の課題はこうした主張を、このような抽象的な言葉ではなく具体的な言葉でこれを説明して、さらに説得的にすることである。そのためには読書だけでは不十分なのは十分承知しているので、これからの残された貴重な時間は「経験」というものも重要視していきたい。

 

D終わりに

以上、4つのテーマを挙げそれについて論じてきた。ただ、当然ながらこれらが不十分にすぎるという点は認識している。特に「何万もの命を救うために1つの命を奪うという理由で殺人は正当化されるか」というテーマについては、気が引けるくらい難しいテーマであり、ここで述べた自分の論理は本当に浅い。故に、まだまだ議論する余地は多く残されている。様々な議論を喚起する本は秀逸である。3巻ある内の1つだけでこれだけの議題を提供してくれる「罪と罰」、やはり大作であった。

 


 

「風が強く吹いている/三浦しをん著」についての考察

 

@はじめに

「生きる」というのは一体どういうことなのか。この本は、個性的なメンバー10人が駅伝を通じて自分自身と真剣に向き合い、文字通り「体当たり」してそれに対する答えを見つけ出そうとする青春小説である。模範的な解答は決して存在しないこの問いに対して、各メンバーが「走る」ことを通じて最終的な答えを出せたわけではない。しかし、必死に生きることに向き合うメンバーの会話、思いなどの中に「より良く」生きるための、読者に向けたヒントが多く散りばめられていることは確かである。私はこのエッセイにおいて、そうしたメンバーの言葉や思いが述べられている部分を引用しながら「より良く生きるために、自分の人生とどう向き合えばいいのか」について、少々説教臭くなるかもしれないが述べていく。

 

Aストーリー

 この本は、トレーニングの途中万引きをして逃げていた「走」と走を追った「清瀬」が出会うところから始まる。走を自らが管理する「竹青荘」に招き入れた清瀬は、走を入れてちょうど住人が10人となったところで、半ば強引にこのメンバーで箱根駅伝に出場するという目標を掲げる。最初は渋い顔をしていたメンバーも徐々にその魅力に引き込まれ、練習に打ち込む中で自分自身と真剣に向き合うようになる。結果が見える勝負のために努力することの意味、自分の過去、チームという組織の中で動くこと、劣等感、恋愛、親との関係、そして「速さ」ではない「強さ」−それぞれがこうしたことに悩み、他のメンバーとぶつかりあいながら、成長していく。この本のなかの主人公は走と清瀬である。不器用で今まで走ること以外に目を向けることをしなかった走が、自分と全く属性の違った人間と触れ合う中で抱える葛藤や怒り、そんな走に対してその都度真剣に向き合う清瀬、この二人がいるからこそこの物語は読者に対して非常に強烈な、また清々しい印象を与えている。

 

B登場人物の言葉

 では、実際に本の中からメンバーの言葉や思いを引用しながら、それに対する自分の解釈を述べ、それがどう「より良く生きること」に繋がるのかについて考えてみたい。

 

@「いいか、過去や評判が走るんじゃない。いまのきみ自身が走るんだ。惑わされるな。振り向くな。もっと強くなれ」(p169

これは走が過去に犯したこと、そしてそれに対する評判を気にして、大会に出ようか迷っている時に清瀬が言った言葉である。ここでは、「後悔」がつきまとうマイナスの過去を指しているが、これとは反対に過去を「輝かしいもの」と置き換えるもことできる。つまり、この清瀬の言葉は、いつまでも「過去の栄光」に浸ることで自分の成長を止めてはならないというメッセージでもあるのだ。過去の栄光に浸る人達は、話をする際、何かと「私は昔・・」と切り出し始める。無論、私は過去が全く無意味だと主張しているのではない。その人を知る上でその過去を知ることは非常に大事であるし、それが名誉あるものであったら素直に褒め称えたい。しかし、いつまでもそれにすがりつくのであれば、その過去はもはや価値を失う。確かに昔の名声に浸るというのはとても心地が良い。そこに留まってずっと安心していたい気持ちも分かる。しかし、それでは決して成長できない。私は、この言葉が今の日本全体に向けて放たれたものであるような気がする。昔の成功体験にすがって、ますますパワーをつけつつある海外(特にアジア)に目を向けようとしない日本。それではこれからの時代生き抜いていくことはできないだろう。そしてその日本に住んでいる私たちは、常にそのことを肝に銘じておかなければならない。そろそろ危機感を持って動く時である。外の目を向け、外の世界に触れる。そこには必ずしも良い体験ばかりが待っているのではないかもしれないが、成長の機会は内に留まっているよりも遥かに多くなるはずである。話が少しそれてしまったが、要するに過去の栄光という安心に浸って成長の機会を失うよりも、新しいことに挑戦して一時の苦労を味わい、そしてまた成長するという人生の方が、充実しているということである。

 

A「いいかげんに目を覚ませ!王子が、みんなが、精一杯努力していることをなぜきみは認めようとしない!彼らの真摯な走りを、なぜ否定する!きみよりタイムが遅いからか。きみの価値基準はスピードだけなのか。だったら走る意味はない。新幹線に乗れ!飛行機に乗れ!そのほうが速いぞ!」(p200

これも、清瀬が自分よりタイムが遥かに遅い王子を認めない走に対して言った言葉である。走ることを「生きる」と置き換えるならば、「スピード」を人生における何に例えるべきであろうか。長距離走においてスピードを出せることは、すなわちレースにおいて勝利するということを意味する。では人生において勝つとはどういうことか。それは現在の価値観で言えば、地位、名誉、金などを手に入れて安泰に過ごすこと、いわゆる「勝ち組」に入ることを意味している。今の社会は、まさに「勝ち組か否か」の価値基準に支配されているといっても良いだろう。もちろん、その価値基準で動いていない人も世の中にはいる。しかし、一般的にという条件を付けるならばそれは妥当な解釈だと考えられる。ここでは、清瀬がその価値観を真っ向から否定している。人生において、ただひたすら勝ち組に入ろうとするその考えを、強く批判している。なぜだろうか。はたから見れば、清瀬の方が甘いことを言っていると言われても仕方がない。彼は、この過酷なレースについていけないから、その言い訳をしているだけだと。しかし、実はそうとも言い切れないということを清瀬はここで教えてくれている。確かに、レースに参加することには意義がある。他人と競争して初めて、今自分がどの位置にいるのかを把握することができるし、それによってモチベーションを高めることもできる。競争は生きる上で不可欠な要素である。しかし、その競争において勝つことだけが自分の価値基準になってしまうのは、非常に危険なのだ。なぜなら、競争に負ける、あるいはこの相手には絶対敵わないと悟ったとき、自分の存在基盤はもろくも崩れ去ってしまうからである。勝ち続けているときは良いが、負けたとき一気に崩壊する。その危険性を、清瀬は見抜いていた。では何を価値基準に加えれば良いのか、今人々はそれを模索し始めているのだろう。最近の社会に貢献しようとする人々の増加は、これと関連しているのかもしれない。まとめると、競争に勝つことだけを価値基準とするのではなく、他の価値基準、例えば人にどれだけ貢献したか、などの基準を加えると人生はより豊かで深いものになる。

 

B「・・・たとえ俺が一位になったとしても、自分に負けたと感じれば、それは勝利ではない。タイムや順位など、試合ごとにめまぐるしく入れ替わるんだ。世界で一番だと、だれが決める。そんなものではなく、変わらない理想や目標が自分のなかにあるからこそ、俺たちは走りつづけるんじゃないのか」(p327

走の最大のライバルであり、「修行僧」の異名を持つランナー「藤岡」が走に向かって言った言葉である。この言葉の中にこの本が伝えたいメッセージが全て凝縮されていると言っても過言ではないくらい、この言葉は重要な意味を持つ。人はどうしても順位を求めたがる。テスト、スポーツ、仕事・・人生のあらゆる局面において、順位は重要なものとなる。なぜならそれは客観的な指標であって、自分がどの位置にいるのか、勝っているのか劣っているのかを瞬時に判断できるからである。それが時には私たちを奮い立たせ、時には言いようのない絶望感を与える。しかし、私たちが順位に対して一喜一憂する原因をよく考えてみると、それは順位というより、よりよい順位を目指して努力した自分自身に対してであることが分かる。良い順位だったのであれば、「そこに到達するまでに他よりも人一倍努力した自分」に満足し、結果が芳しくなかったのであれば「あまり努力しなかった自分」に憤りを覚える。こう考えてみると、結局は順位とは付随的なものであって、重要なのは藤岡が言うように自分でたてた理想や目標にむかっていかに自分の中の弱さやずるさに打ち勝つか、つまり自分に勝てるか否かであることが分かる。これで「結果がわかりきってるスポーツって、なんのためにやるわけ」(p365)というジョータ(駅伝のメンバーの一人)の問いに答えることができる。重要なのはその1位という順位なのではなく、そこに向かって自分が納得するまでの努力を続けることである、故に挑戦し続けることには非常に大きな意味がある、と。なんだが青臭い精神論を言っていると思われるかもしれないが、こう考える人の方が、どうせ良い順位はとれないのだからと最初から努力を放棄する人よりも成長が望めることは言うまでもないだろう。そして、この「納得する」までという基準だが、おそらく永遠に自分が完璧に納得する日は訪れない。それは終わりのない道でもある。しかし、だからこそ人生はやりがいがある。「届かなかったと感じるかぎりは、無限に『次』があるのだ」(p475)と走が言うように、今の自分に満足せず、ひたすら自分に勝つための努力をし続ける人がよりよく生きる道に通じていると言える。

 

 

C考えることから行動へ

ここまで、各メンバーの言葉を頼りに「よりよく生きるためにはどうしたら良いか」について考えてきたが、私がここで述べたことは今まで多くの人が語ってきたことであり、ある意味「通俗的」な意見かもしれない。そして、何よりここで述べたことは「言うは易し、行うは難し」の典型的なものである。よって、今重要なのはここで述べたことをいかに実行に移すかということになるのだが、残念ながらこうすれば絶対皆が実行するようになるというような劇的な処方箋はない(あったら私に教えてほしい)。そこでも結局は自分との勝負にならざるを得ないのである。唯一言えることは、キング(駅伝のメンバーの一人)の描写にあるように「キングは小心であるがゆえに、プライドが高い。傷つけられることを恐れて、ひとと親しく交われない」(p570)、このような状態に陥ったときは、実行に移すことはますます困難になる。よって成長は望めない。

 

D終わりに

「はじめに」で述べたように、やはり少し説教臭い形になってしまったが、各登場人物の言葉や思いから生きることについて十分に考えることができた。過去を振り返らずに今を生きる、勝つことだけに価値基準を求めないことの意義、そして自分に勝つことが真の意味での勝利である―こうしたことを中心に述べてきたが、他にもこの本の中にはどう生きるべきかについてのヒントがたくさんつまっている。「純度100パーセントの疾走青春小説」と紹介されているように、この物語の中で登場人物は臆することなく自分の感情を表現し、時にぶつかりあう。生きることについて疑問を抱いた時は、この本のなかの濁りのない世界に触れて、改めてその意味を考え直してみるのもいいだろう。